昭和49年10月25日 朝の御理解
御理解 第50節
「とかく、信心は地を肥やせ。常平生からの信心が肝要じゃ。地が肥えておれば、肥をせんでもひとりでに物が出来るようなものぞ。」
昨日は久留米の教会の教祖大祭で御座いました。久し振りにあちらの御大祭を拝ませて頂いた。この頃もう若先生が祭員でおかげを頂きますから、ご無礼しておりましたけれども、若先生が今居りませんから私が変わりに、参拝だけでもと思うて参りました。そしたらまた祭員の事の電話を頂きましたから、幹三郎が祭員でおかげを頂きました。昨日私は櫛原のいわゆる久留米の教会の御大祭を頂いて、何かそこに本当な物を見たような感じが致しました。本当なもの。
本当に信心の徳と言うのはあの世にも持って行かれ、この世にも残ると仰せられるが、本当にそうだと思います。昨日はあれだけの沢山な出社が御座いますから、沢山の直接の出社の先生方も沢山お参りになっておりましたが、教師玉串の時に私に玉串を持って来られましたから実はびっくり致しました。沢山の先生方がおられるのにまぁしかもたまたまお参りしたのに玉串をおかげを頂いて、まぁ面目を施した訳ですけれども。
例えば今日の御理解を頂いて、とかくに信心は地を肥やせと、本当に初代の石橋松次郎先生は、如何に地を肥やしておられたかと云う事をです。目の当たりに拝ませて頂くのが、あの言わば御大祭の形に現れて来るですね。確かにそうです本当に地を肥しとかにゃいけません。もうそれこそまぁ言うならばひとりでに物が出来ておる様な状態が、ひとりでにあの様な立派な御大祭が御奉仕になられると云う事。
常日頃はどうであってもほんならその収穫時、収穫時にきちっとあぁした収穫が出来ておられると云う事は素晴しい事だと思います。とかくに信心は地を肥やせと仰せられるのですからね。しっかり地を肥やしておかなければなりません。石橋先生が親教会に尽くされた事は有名です。勿論ご自身の心の上に豊かな大きなしかも美しい心を、限りなく身に付けておいでられたと云う事も皆さんもご承知の通りです。
それこそ三代金光様をして久留米の石橋さんこそ、真の人でしょうなぁと言われたと言う程しの大徳を受けられた先生ですからね。 まぁここ辺りもそこの言うならば祭り部というですかね、流れを頂いておる所のまぁ教会です。言うならば親教会に尽くされ、ご自身のいわゆる私は、信心は地を肥やせと言う事はそう言う事だと思うですね。親先祖とか例えば親教会とか、または自分の心をいやが上にも豊かに肥やしておいでられた。そこに私はひとりでに物が出来る様なおかげが。
今日言うなら久留米教会の上に現れておる。本当にそれを昨日は実感させて頂く御大祭で御座いました。帰りに今善導寺の久保山さんと、それから原さん所の千恵子さんとが、共同でうどん屋を始めております。まぁだ何日十日にもならないでしょうか。丁度帰り道ですから御大祭におかげを頂くから寄らせてもらおうと。丁度昼頃でもありましたがもうそれこそ千客万来で、座る椅子がないのです。まぁだ始めたばっかりもうとにかく開けたばっかりの時から、そうだったと云う事です。
もう開ける前の日からお客さんが寄られると言う様なおかげを頂いております。成程評判する様に実に美味しいおうどんでした。私と高橋さんと久富さんと、後ろに一時ばっかり、待っとかにゃいけなかった、おうどん頂くのに。もうそれからもう戸は閉めてしまいます。こう戸が両方から入られる様になっとりますが、開けておくとお客さんが、それでもやっぱり入って見えるから、どうもすみませんと言うて断っている。まさにひとりでに物が出来ておる様なものを感じますね。
久保山さんにしろ原さんにしろ、言うならばそういう意味でひとりでに物が出来るような、私は地肥しが出来ておった。これはまぁ言うなら小さい見合い出来でありますけれども、それがほんなら現在うどん有馬と言う称号が付いております。本当にあの女の人達が共同でしておるような、それこそ優しいうどん屋さんが出来てる。まぁそらちょっと言うならば屋台に毛の生えるくらいな小さい店ですけれども、場所が上がビルになっておる。その一番下のほうを借り受けてある。
あんな高い家賃を出して大丈夫だろうかと、皆が心配するほどしでしたけれども。あの模様ならば、おかげを頂いていくでしょう。またそして実に美味しい。まぁ実に気持ちのいいサービスをしているね。ひとりでに言わばささやかながら、物が出来ておる様な物だと思いますね。もう開けたらその日から、言うなら千客万来ですからね。しかも日々それがおかげを頂いておると云う事であります。私は本当にです言うならば、その地を肥やしておかなければ、矢張り物が出来ない。
こりゃもう道理でありますから。本気でおかげを頂いて、ほんなら常日頃の信心を大事にしとかなきゃいけません。昨日は椛目に行っとります愛子が、丁度二十三日の朝の三時半、私が此処に出て参ります時にからでしたから、四時ごろから丁度朝の四時頃から参りまして、そして昨日の八時の御祈念の時、電話が掛かってから、今から手術室には要るからというお届けでしたから、それから三十四五分致しましたら、無事に親も子もまぁ無事に安産のおかげを頂いたと言う知らせがありました。
家内と勝美さんが帰ってきたのはもう夜の十一時頃でした。まぁそれではなくても簡単な神前輪をかけ、又はずっとお届けに来ておりましたから、何と一昼夜半ですから、四十時間ぐらいかかっております。まぁいうなら難産中の難産だろうと思いますけれども。私はこういう時にです。地が肥えておきませんとおかげにならない。地が肥えておると云う事は、どう云う事かと言うと、私はあの病院に参ります時に、神様にお届けさせて貰いましたら、今度の出産は玄人向きの出産じゃと頂いた。
言うならばアマではなくてプロのという訳ですね。まぁお産に玄人とか素人とか言う訳じゃないでしょうけれども、受ける信心の方がだと思います。信心の方が言うならその受け方が言わばプロの受け方、言うなら玄人の受け方の言うなら稽古をさせて頂く事だと言う事です。もう生まれるだろうもう生まれるだろうと言うて中々生まれません。とうとう二十三日の月次祭が終わってから夜中に家内が帰って参りました。
もうとにかく周囲の者のほうがグロッキーになる様に疲れておる。本人はそうでもないけどもやっぱり何にも食べていないから、腹の力が無いのでご飯食べたいと言うそうだからご飯炊きに帰って来た。そしてほんならご飯を食べたけれどもやっぱり力が出らん。とうとうあくる日もその晩は小野先生も一人で心もとなかったんでしょう。近所の有名な可児さんというですかあの先生を立ち会って貰って来て貰っておられます。その時に小野先生がお願いに出て見えられてから、まぁ言うなら異常妊娠ではなかろうかと。
という懸念があるそれでもう引っ張り出す事も出来なければ、押し出す事も勿論出来ないと言う様な中でしたから、その手術でもしてからと云う事だったらしいですけれども、可児先生が是はあの中の赤ちゃんも、まだ元気の様だからもう暫く待とうと言うので、ほんならその一晩とあくる日を一日待って、それからあの色々と処置をして頂いたんですけれども。とうとう晩になっても生まれないと言うので又お届けに出て参りました。それでとにかく医大かまぁ適当な病院に移させて頂こうと云う事になって。
それからあの聖マリア病院に電話をされたんでしょう。所が丁度おかげで病室を一つ空いたばっかりだと言うので、そちらに移らせて頂いてすぐ手術に掛からせて頂いて、かかって今申します様に三十分余りでおかげを頂いておる。ですからその間にもうどれだけ何回電話が掛かって来たか分からん。又お届けに来たか分かりませんけれども。もうその都度都度にです、もうそれこそ高い所から低い所へ水が流れて来ると言うのはこう云う事だと。言うなら看護婦さん方が、グロッキーになる程しに疲れておられるとか。
先生方が他所から来て、立会いに来られる先生方が、じたばたしておられるとかと云う事が、皆んなそれをですね。一つ一つ神様がじたばたしておって下さるんだという頂き方ですからね。もうおかげでと言うならば、その時点その時点と云う物をとにかく有り難う御座いますと言う受け方ですからね。はぁ成程こう云う所が、私は信心の玄人と素人の見境と言うのは、一切を有難い、有難いで受けて行けれる人こそが、玄人だと思うですね。詳しいと言う事じゃありませんね。
例えば今合楽で言われておる奇跡とか、薬は毒になるとかと言った様な話ですけれども、その毒でも変じて薬になる様なおかげを頂く為には、そういう頂き方が要るんです。私は今朝から何時もの通りに起して頂いたと思ったら、もう子供がむかえに来ておりますもん。それから聞きましたら、もう何時も三時十五分に起きるのに、三時半あります。ここへ来たらもう、だから三時四十五分ある訳です。何時もよりか十五分間、時計が間違っていたらしいんです。
だから本当に時計も当てにならないもんだなといった事でしたけれどもね。けれどもほんなら当てにならないからと言うて、時計をほんなら、あの排斥してはなりませんね。ですから当てになるのは、神様だけですけれども。ほんなら時計が当てにならんからと言うて時計を捨ててはなりません。それも自然の働きをそのままにです、例えばほんなら産気づいた病院に入った。もう入ったが最後、先生が色々とされる。もう先生病院に入ったからは、あなた任せですよと云う事である。
それとまぁ切ろうが、刻まれようが、そこはもうあなた任せなのである。ですからその時点時点を、おかげを頂いておると云う事を、お礼を申し上げる。その例えばお産の事ですけれども。頂きましたのが、あの桃太郎さんを頂きました。桃太郎さんがこう桃をこう押し割っておる所を頂いたんです。それから尚また、お願いしておりましたら野菜、菜切り包丁のね。所謂昔あった、大きな野菜を切る包丁を頂きました。ははぁだから是は、切れ物を当てなければいけないなと思うておりましたから。
手術をすると言われても、それこそさぁと言う訳でもないけれども、もうそれこそ心に掛かるものがありません。昨日小野先生が、お願いに見えましてから、もう僕だけはまぁだこうして元気だけれども、他の者はグロッキーになってしまっておるというお届けをしておりましたけれども。先生がお願いに見えた時に、いが栗を頂いた。いが栗が少しばかりこう開いておる所を頂いた。それで摘み出そうにも摘み出せない。下から押し出さなければ、出るなら出らないと言った様な感じの所を頂いた。
だからほんなら、どう云う事でしょうかち言うて。まぁ周囲が、じがじがしておると云う事だろうとこう思うです。そう言う例えば、お知らせも頂きながらでも御座いますけれども、ほんなら言うなら四十時間余り、不安もなからなければ心配も無い。そんならば、それに直面しておる家内と、そんなら椛目の妹とが、まぁ係り切りで移り変わり付いておりましたが。
まぁほんなら、あの人達がどう言う風な受け方をしたかと云う事は、それはあのやっぱり一生懸命辛抱、とにかく安産のおかげを頂く様に、それこそ此処で一つの奇跡でも起こって、医者は出らんと言いよるけれども、刃物を当てんでもそろっと出る様なおかげを頂く様にという願いをしたのじゃないでしょうか。夕べ帰って来てから、もうこっちの方が力んでしもうてから、身体がもう痛うして応えんち家内が言いよります。
自分が方が、その一生懸命力んでおる訳です。だから本当言うたら、力みもいらなければ、心配も要らない。昨日丁度四時の御祈念の時に、勝美さんがお願いに出てまいりました。もうあと一息と云う所で疲れたと言うて、それから私はすぐ四時の御祈念に入らせて頂いて、それから、四時の御祈念を終わってから、まぁ勝美さんに申しました事でした。勝美さんに申しました。
あのね勝美さん。あの例えば、三十時間が四十時間、時間が掛かろうが神様の働きの、一分一厘間違いのない働きのなかにあってからの事だぞと云う事です。だからお礼を申し上げにゃおられないはずです、大体がね。お医者さん方がじたばたしておられようが、立会いの医者やらが来られようが、産婆さんがグロッキーになっておられようが、それをそしてまた病院を移させて頂こうがね。
(テープが表から裏になって内容が少し飛んでいる)
ておる事だと言う事がです。あちらの病院に行ってから、思いましたと。あちらでこう、あの救急車で運ばれてタンカに乗せられて行く時に、もう疲れ切っておる、その愛子が、あのタンカを担がれる方達に、どうもすみませんと言うて、大変あのお礼を言うたと。そのお礼を言うておるのを聞いて、勝美さんがはぁおかげ頂いたと、初めて思うたと云う事でしたね。
そしてあちらへ行って、その病室が一つだけ空いたと云う事である。そしてすぐそれが、あの宿直のお医者さん方がおられる部屋の、すぐ側ですから、大変親切に、あの異常があったら変わった事があったら、すぐ知らせて下さいよと隣の部屋におられる。そう云うおかげを頂いて、親先生が今日昼言われた、一分一厘間違いのない働きの中にあっての事ぞと言う事が分かったと言うて、夕べ言うておりますね。
ですからお互いの信心がです。地が肥えておりませんとです。そういう豊かな地が御座いませんとです。受けられないです。これは多分心配があるです不安がある。そして芽が出らないです。心がコンクリの様であったら、どんな良い物をおいても芽を切らないです。そういうおかげになって行かないです。私は今日はね。地を肥やす。なぜ肥やしておかなければならないか。地を肥やしておけばです。それこそ高い所から低い所へ水が流れる様な、スムーズさであってもそれをスムーズさに感じ切れないね。
ただ棚からぼた餅が落ちて来る様なおかげだけが、私はおかげではないと云う事ですね。それこそお産だ車の中で、あのね守口つぁん達のごたれば、もう病院まで行く時間がなくて、車の中で産まれなさったと言う様なね、事があるかと思うとです。それもおかげならです。四十時間も掛かってしかも、私に言わせれば実にスムーズ。それはまぁ高い所から、低い床ろと言うてもです。それは丁度、谷川の水の様な物かも知れません。その岩に突き当たり、ここの瀬に澱み。
また次の岩に当たりと言った様な事かも知れんけれども、それはそのまま、矢張り順調であると言う事なのですね。おかげおかげへの道を歩いておると云う事です。その時点時点がです。豊かな心地を肥やしておかないとです。玄人に受けられる様な受け方が出来んのです。不安です心配です、それは中であの先生、小野先生がね。だから中の子供はもう犠牲にしなければならないかも知れない。ほんならあらかじめ言うとかなければと言った様な意味の事を言っておられましたけれどもですね。
例えばよしそれであってもです。結果においてそれが右であっても、左であっても有難く受けられる心こそが、地を肥やした心の状態です。金光様のご信心はねそこん所を、皆さんが身に付けて行かなければいけん。そん為には常日頃に、地を肥やしておかなければです。是はおかげじゃない、是はおかげと言う風に選別しなければなりません。それもおかげ是もおかげという頂き方が出来んのです、心が肥えておらないと。
例えばほんならそれを実際直面しておる、妹と家内がどう言う風に、まぁ受けて行ったかは分かりませんけれども。ほんなら私自身の受け方と言うのは、もうその四十時間の間に実にスムーズなです。神様の働きとしか受けていないと云う事です。おかげね。それがね分かっておれども心配だと。分かっておるけれども不安だと言うのが、まだ地が肥えていない証拠ですから、愈々地を肥やす事の為の、常日頃の信心をしっかりなさらなきゃいけません。地が肥えていないとですね。
良いものも生まれませんがですね。良いものが生まれて来る、その種が蒔かれた時にです。その種が芽を切る事が出来ません。硬い痩せた土地であったら。心がコンクリートの様にしとったんではです、どんな良い物を持って行っても、良い物は生まれません。如何にその土地が豊かに肥えておらなければならないかと。同時に私が今朝から失敗を致しております様に、何時も三時十五分に成程三時十五分に起きておるんですけれども、十五分間時計の方が遅れておったと云う事です。
だからもう時計は当てにはならんと言うのでは無くてですね。時計もまた要るのです。例えば委ねたなら任せたならばです。矢張り委ね任せて例えば病院の先生の薬も頂かなければならない、注射も受けなければならない。又は手術も受けなければならない。けどもその受け方がです。おかげになる受け方が出来ておらなければいけないと云う事ですね。そこん所を私は、偏屈になっておいて、もう時計は当てにならんから、時計なんかはもう枕元には置かんと云う様な事ではいけません。
成程頼りにはなりません。本当の事は頼りにはなりませんけれどもです。ほんなら薬が毒でありましてもです。その毒薬が変じて薬になる様な。お医者さんが持たれる、そのメスのです持ち方一つの上にでもです。怪我過ちのない様なね。お医者さんとしても神様では無いですからね。不調法と云う事がない筈がありません。だからそういう不調法の無い様な、おかげを受ける為にです。心が豊かに肥えておりませんと、良い働きになって来ないのです。心を豊かに肥やしておかなければ、良いものは生まれん。
それには常平生の信心が大事。ほんなら常平生の信心というのは、焦点を何処に置かせて頂くかと言うとね。とかく信心は地を肥やせ。信心の焦点は何処までも自分の心を豊かに肥やして行くと云う所におかげがある。そして成程それが事実だなと、言わば実証的に聞いて頂いたのが、昨日の久留米の御大祭のね。成程ひとりでに物が出来ておる様な御大祭を拝ませて頂いてね。本当な物の強さと云う物を、改めて分からせて頂いた様な気が致します。
どうぞ。